久しぶりに大阪その2 まっちゃん
あべのハルカスから奈良方面を臨む
私には、
河内遊侠伝の歌いだしにある
バカなガキほど可愛てならぬ、というような弟分がいた。
過去形なのはもう亡くなってしまったからで、弟分だからほんとの兄弟ではない。
もともとは家人の客で、明らかに失敗作だった背中の観音さまを手直ししてほしいと言って現れた。
観音さまが仕上がっても、また新たに両腕に刺青を継ぎ足すと言う。
墨を受けるのがすごく楽だったそうだ。
そのうち私の居酒屋にも飲みに来るようになり、うちの家族とも親しくなった。
奈良出身で田舎の暴走族を皮切りにやんちゃ人生まっしぐら。
ヤクザの縁もあったらしいが、知り合った頃は私設の競馬新聞の発行者だった。
そのあとは金になりそうな事なら、お縄にならない程度のギリギリ路線を手広くあれこれやっていたようだ。
高利貸し、パチンコのいかさま師、などなど。
しかし、信じられない間抜けなチョンボやらかしてどれも長続きしない。
金貸した相手に同情して追い銭くれてやったり、ハイテクないかさま機器使いこなせずバレて逃亡したり。
ヤクザに戻ろうか?というので、やめとき絶対に向いてへんから。
まず顔からしてあんたヤクザに向いてへん。
まつ毛長うてカールしてるやん。
そんなヤクザおらんから。
ドスが効かんどころの騒ぎやないから。
言うてとどまらせた。
ゆいいつカタギの仕事が散髪屋経営だったが自分に資格がなく職人さんを雇って経費倒れで1年持たなかった。
しかし定職無くても不思議と金回りがよくて毎年のように中国は大連くんだりまでおねえちゃん遊びに出かけていた。
よくそんなお金あるよね!
イヤミ言うと友達と積み立てしとるからと、そんなとこだけ堅実派なのだった。
そして罪滅ぼしのように私にシャネルの香水をおみやげに買って帰った。
問題児ではあるが小悪党の印象。
自分より格下と見る男には高飛車で、
女に弱くしかも高望み。
振られると手のひら返すようにクソミソに悪口雑言。
酒癖の悪さ天下一品で敵多し。
近所中出禁の店多し。
牛丼屋からココイチカレーからコンビニ、ビデオ屋に至るまで網羅である。
うちのお客さんも迷惑こうむった人が相当数いたと思う。
私も何度も出禁にしたが、行く所無くて結局詫び入れては帰って来るのだった。
ガタイちっこいくせに向こう意気だけは強く、店で腕相撲が流行っていた時、片手でタバコ吸っていた女の子に秒殺されていた。
そんな様子を見ていたうちの孫がいみじくも言ったものだ。
「ぼく絶対にあんな大人になりたくない」
そんなまっちゃんをなぜ縁を切らずに付き合ってきたのか?
大阪を離れても私の誕生日には欠かさずバラの花を送ってきた。
ある時、もうその歳やから花より食いもんの方がええやろと言い、てっちりセットを宅配してくれるようになった。
奈良の居酒屋からだった。
まっちゃんが亡くなったことをこの店のマスターからの電話で知った。
弟分なのに携帯の番号以外何も知らずどうしようもなかった。
今回大阪に行く事になって、ふと、このマスターを思い出し連絡してみた。
もしお墓の場所が分かれば奈良まで足を延ばしてお参りに行くつもりだった。
だがマスターの話では、店は移転し、まっちゃんのゆかりの人とも一切連絡が途絶えたという。
大変申し訳ないと何度も謝られた。
気にしないで下さい、大阪着いたら奈良の方向いて手を合わせるので、
と言って電話を切った。
樹木希林が、なぜ内田裕也と別れないのかと娘に聞かれてこう答えたという。
あの人には、ひとかけらの純なところがあるからと。
私とまっちゃんの言わば腐れ縁のような付き合いも、まさに希林さんのこの言葉に集約されている気がする。
あるいは、フウテンの寅さんとおばちゃんとの関係のような、という方が近いかな。
息子その2が親の車を夜中に乗り回し、車上荒らしにあって車の窓割られた時、知り合いの修理屋に安く直してもらうからと乗って行く時、
あんま,おかんに心配かけんな
と言ってくれた。
あなたに言われても、と思っただろうが
「はい」と息子その2は素直に返していた。
そして高校最後のサッカーの試合の応援に一緒に行ってくれた。
家人の弟子の彫師志望に、自分の腕を試験台に提供してくれた。
息子その1が家を出て沖縄に旅立つという送別会で、もうひとりのヤクザと泣いていた。
いろいろ思い出すと、いいやつやったとしか思えない。
息子達はそれぞれ親孝行に。
あんな大人になりたくない、と言った孫その1はきっちり公務員となった。
自分の腕を試し突きさせてやった彫師志望は、日本を代表するような彫師になったよ。
病室からの風景
家人が検査入院のため豊後大野市の病院に1週間お世話になった。
病室の窓を開けると、真っ先に目に飛び込んできたのがこの建物。
小高い丘の上に建つ、なにやら雰囲気あり過ぎの古びた洋館。
見るからに、ジブリ臭ふんぷんのたたずまいに思わず居合わせた看護師さんに聞いた。
あの建物はなんですか?
学校かなんか?
すると彼はえっ? という感じに今気がついたという風で、
さぁ、なんの建物かは分かりませんが学校ではありませんと言った。
どうも気になるのでネットで調べた。
豊後大野市の古い建物。🔍
すぐに件の洋館がヒット。
旧緒方村役場跡。
大分県に現存する最古の木造庁舎だという。
国の登録有形文化財とのことだった。
昭和7年建造で老朽化も激しく、幾度か存続の危機に見舞われたが、市民の強い要望によって保存が決まったらしい。
最近大規模な補修工事が行なわれ、
なるほど、いかにも古そうな外観ながら鮮やかな屋根や外壁の色合いが際立っている。
市民の情熱の結晶の如き建物なのであった。
私は別府育ちで、子供の頃昭和30年代にはこのような洋風の屋敷があちこちにあった。
観光地ゆえ、昔に市をあげて別荘地ビジネスに沸き立った名残りだったろう。
村役場跡を見て、不思議な懐かしさを覚えたのはそういう理由からかも知れない。
話はコロリと変わるが、
昨年来家人が体調を崩して病院のお世話になる機会が増えた。
病状とは別に、ひとつ困った事がある。
採血や点滴治療の際に、穿刺(センシ)と読みます、詳しいでしょうが。😁
穿刺できない。
つまり点滴の針が刺さらない。
というかどこに刺せばいいかわからない。
看護師さんが何人も代わって4人目でやっと入ったという事もざらである。
ご存知の方もおられるだろうが、家人かつては刺青の彫師で当然両腕にみっちりと彫り物が入っている。
タトゥーのようなチャラい代物ではない年季もんが。
年季入り過ぎて今や古色蒼然たる天然記念物的質感醸し出しており。
誰も保存運動しませんが。
それがどうも点滴が容易に入らない原因ではないかと思う。
物理的に彫り物が問題なのではなく、看護師さん達を緊張させてしまうのかも知れず。
家人が、ここからなら入りやすいよと言って指差しで教えてやっても、血管が見える所に、従って手首に近い細い血管にトライしたがる傾向があると。
ますます入りにくいと。
どこの病院に行ってもそんな事を繰り返すので、さすがにトラウマに陥っているらしい。
針恐いと。
刺青を入れることのデメリットがあれこれ取りざたされる。
子供とプールに入れない。
温泉に入れない。
夏でも半袖着れない。
とかなんとか。
しかし、そんなことは屁でもないのよ。
病気になった時、たった一本の針が入らず穿刺残酷物語におちいるリスクというものも考慮に入れておくべきである。
あ、家人の検査結果は良好にてもう退院しました。
写真は、本人ではなく家人が彫った作品です。(注)
マイナカード作りましたが!
なるべくなら作りたくなかったのですが、
ややこしそうやし、
めんどくさそうやし、
しかしですよ、
健康保険証が廃止になり、マイナカードに取って代わると聞きました。
われわれ老老夫婦にとっては保険証ほど大事なものはないのですね。
なにしろ、たまの休みが医者通いという生活ですのでふしょうぶしょうながら作ることにしました。
どうせ作るのなら2万円貰えるうちにということで2月末ギリギリに申請しました。
昔からのお家芸と言いましょうか、お得意のアメとムチ戦略にまんまと絡め取られた形ですかね。
なんか申請した自分自身に腹が立つ、というような システムじゃあありませんか。
もっとこう、国民の幸せの向上のためにすばらしいシステムを導入しますので安心して利用しましょう、と嘘偽りなく進めているものなら喜んで、胸に曇りもなく協力するでしょう。
スマホで申込みができるらしいので頑張ってやってみました。
写真もスマホで撮って送信できるので超便利。
ところが、背景によけいなものが写ってはいけないという。
家の中あちこち白の無背景を探して回るも、なかなか無いものなんですね。
障子の桟が写り込んだり、裏に回ってもその影が写ったり。
結局障子に白の和紙を家人が上から張り付けて背景にしました。
やっとのことで規定のサイズ通りに二人分の写真が撮れてやれやれ。
ところができた写真が私は気にいらんわけです。
「なんかこれ、かしまし娘みたいやない?
撮り直そうか?」
「おまえ、今、そんなこと、気にしてる場合やねえんじゃねえ?」
一連の作業にげんなりしていた家人が、いかにも撮り直してもいっしょじゃあと言わんばかり。
なので、そのまま送信しました。
そして、時は過ぎ。
通知が来たので役場へもらいに行きました。
写真見てあっと言いました。
かしまし娘の背景ほとんどありません。
あんなに苦労して和紙まで張ったのに、、、
ここへ来て、マイナカードの不具合が目白押し。自主返納が続出だそうです。
先日、かかりつけの病院にて。
もらったマイナカードを家人がさっそく使わんとして顔認証が不可!
「なんかこらっ! わしの顔がわからんのか?
こんなもんがクソの役に立つか〜」
お怒りでした。
一人で運転する時は!
うちの車には音楽装置がついてないので、自分で歌いながら運転している。
なるべく長い歌を、くどくどと歌っている。
歌詞を思い出しながら歌うのは、脳活に素晴らしくよいのだそうだ。
長い歌だから昔の歌が多い。
今の定番は、
十九の春とか
盛り場ブルースとか
港町ブルースとかだ。
どれも数え唄風なので順番を間違えても全くOkなので気楽に歌える。
森進一の歌は都市名や盛り場がある地名を覚えるのでお勉強になる。
ような気がする。
それにしても思うのは、昔の歌謡曲って判で押したようにバカな女が悪い男に騙されて泣くだけ、という歌が多過ぎる。
アホな男だまくらかしたった女の歌というのは皆無である。
なぜか?
男の作詞家によるからである。
絵になるのは女の涙であって、男の涙は女々しいという時代背景もあるかも。
女の捨てられ方がひどい。
紙くずみたいに→いしだあゆみ歌唱
ポイとビールの栓のよに→藤圭子歌唱
よう言うてくれてます。
路地の日陰の小石でも
いつか誰かが拾ってくれる→盛り場ブルース
誰が拾うか、そんなモン
いつの間にか人生幸朗師匠に私なってます。
上の3曲制覇したのでもっと長い歌を覚えたくて探している。
人を恋うる歌とか、鉄道唱歌とか。
手強いけど。
「人を恋うる歌」は、
妻をめとらば才たけて、で始まる与謝野鉄幹作詞のあまりにも有名な歌。
昔の寮歌というイメージがする。
森繁久彌が歌っていて、硬派な、しかしなかなかよいよ歌詞が。
16番まであるらしいけど、まぁ普通は4番まで。
作曲者不詳にて、日本伝統曲とあります。
ボケ防止に、16番までチャレンジしてみるかな?日本伝統曲を。
写真は、昭和40年発行の月刊誌「明星」の付録の歌詞集「歌う青春ドライブ」と中の広告。
若者はいつの時代も筋肉つけたい!
久しぶりに大阪ヘ行って来ました。
6年ぶりになりますね。
大阪に住んでいた時にお世話になった恩人の墓参りをするのが第一目的の一人旅でした。
四天王寺さんにある共同墓地に案内してくれたのは彼女の三男で、私の長男の親友です。
長男も沖縄から来阪していて一緒にお参りしました。
墓前に手を合わせ、ほんとうにお世話になりました、いろいろありがとうございましたと祈りました。
今でいうママ友だった彼女のことを、私はずっと「社長」と呼んでいました。
ミナミで手広く水産会社を営んでいたからで、私が居酒屋を始める時に相談に行った時にいろいろアドバイスしてくれました。
自分の得意先の居酒屋にも連れて行ってくれて、励まされました。
ことさらに強く印象に残っている言葉は、
「奥さん、商売で心掛けとかなあかんことは、昔から言う店よし客よし世間よしの精神やで」
こう教えてもらいました。
昔の近江商人の哲学かと思いますが、私は今でもこれは金言だと思っています。
とにかく金を儲けさえすればよいという風潮がますます強まる一方の昨今においては、商売人は原点に立ち返る事が重要なのでは、と自分にも言い聞かせています。
もっとズルく立ち回ってもっと儲けたい、と思う時は社長のこの言葉を思い出します。
大阪を離れて10年余り、大分近辺で地震があったりすると真っ先に電話を掛けてきて心配してくれました。
ほんとに情の深い優しい人でした。
奥さん、おっきい地震来たら逃げや!
家潰れたら大阪においでや〜。
奥さんに会いたいねん。
と言ってくれた社長。
会いに来ましたで〜、遅れたけど。
写真は四天王寺さんと亀池。
またブログを始めました!
しばらく遠ざかっていたブログを再開しようと思います。
facebookやLINEなどでは伝えきれない思いを文章にできたらいいなと思います。
今はスマホひとつで写真や文章を投稿できるので、さらに気軽に更新できそうですね。
窓辺に白いアジサイとミントを置きました。新緑が爽やかです。
アジサイは店の横手に咲き始めたのを切って持ち帰り、ミントは家の畑に群生しているものです。
もう10年以上も前に、喫茶店のマスターからもらったミントのたった一本の苗がまたたく間に増えました。
ミントは地下茎を伸ばすので、次から次へと新しい芽が出て爽やかな香りを振りまきながら畑を席巻していきました。
匂いが強いので、虫やネズミが寄り付かないそうです。
緑がほんとに美しいので、「道の駅宇目」で売りに出していた杏仁豆腐のトッピングに使っていた事があります。
そう言えばそろそろ冷たいおやつが食べたくなる季節になりました。